江戸幕府のもとで役所と化した寺

江戸幕府はキリシタンを取り締まるため、檀家制度を敷いて宗門人別帳という戸籍簿を作り、お寺にお葬式を執行させるようにしました。
その際寺院の本末制度も設け、寺院を幕府の管理下に置く宗教政策を確立しました。
同時に、神社でお葬式をやってはいけないということにして、お坊さんをお葬式の専門職にしてしまいました。
それまで本家の主や長老が行ってきた葬儀を彼らから取り上げ、寺院の仕事にしてしまったわけです。
お寺は、この制度によって体制の維持をはかることになります。
自分のお寺に帰属する檀家ができて、お葬式という儀式が執行できるわけですから、経済的には安定します。
それに、役所の戸籍係の役を兼ねるのですから、檀家に対して一種の権力を持つようになります。
仮になにかあった場合、「おまえ、キリシタンだろう。宗門人別帳から消すぞ」と脅かすことができます。
宗門人別帳から削られることを、
--かけおち--
といいます。
宗門人別帳から欠けて落ちるからです。
檀家はかけおちを前提にお寺から脅されるものですから、葬式を派手にやらなければならなくなります。
こうして、今でいう「葬式仏教」の基礎が築かれていったわけです。

伝統的な葬儀から家族葬の時代へ

東日本大震災を契機に日本人の死生観が変わりつつある現在・・・葬儀もそれに合わせて変わりつつあります。
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仏教が悪乗りしてできた年忌法要

これらの諸政策は、決して幕府がお寺を保護するために行ったことではなく、あくまでもキリシタンの弾圧のためでした。
キリシタン式の葬式をやらせないようにするための宗教政策だったのです。
ところが、仏教はそこに悪乗りしました。つまり、お葬式が終わればそれでおしまいということにはせず、一周忌、三回忌、七回忌・・・三十三回忌などという年忌法要を制度的に付随させたわけです。
前に言いましたように、日本人には死は機れだという観念があります。
これを「死機」といいますが、この死機を鎮める儀式が必要になります。
ひとつの側面からいえば、死体の処理はお葬式で完了します。
しかし、霊魂の処理はそれではまだ終わっていないとしたわけです。
ここからは、儒教の考え方を援用します。
儒教では、人間を「魂」と「槐」からなると考えています。
人間は精神と肉体で成り立っていますから、
魂-精神をつかさどる神霊
魄-肉体をつかさどる神霊
という二元論で人間を説明したのです。
わたしたちが生きているうちは、魂と塊はバランスよく調和して共存しているのですが、死ぬとこの二つは分離します。
あるいは、魂と魄が分離した時に人間は死を迎えるといってもいいのかもしれません。
人間の死後、魂は天上に昇って「神」となり、魄は地上にとどまって「鬼」となるといわれています。
魂も魄も、普段はそれほど恐ろしい存在ではないのですが、ただ、天寿を全うしないで横死した人の魄は悪鬼となり、人間にたたりをなすとして恐れられていました。このような悪鬼を鎮めることも、儒教におけるひとつの儀礼になっているのです。
「魂」という字は、「云」と「鬼」からなっています。
「云」とは雲のことです。
だから「雲」という字は雨の下に云をつけるわけです。
ということは、魂は死後人間の体から離れ、雲の漂うあたりに昇っていくのです。
一方、魄は地上にあります。
儒教では、この魂と魄をもう一度合体させることによって死者はこの世に再生できると考えました。
そして、死後の追善供養の儀礼はそのために行うものとしているのです。
これを「招魂復槐の儀式」といい、儒教の大事な先祖祭祀となっていますが、日本人はそういう儒教の考え方の影響を受けて、人間にはなにか魂みたいなものがあり、それを祀らないとたたりをなす、悪さをするということで、魂鎮めを重視してきました。
仏教は、これらの考え方を取り入れたのです。

日本人が作ったごった煮の死後の世界

お葬式は、総じて肉体的な処理です。
それに対して、魂の処理が大事だとして、古代神道や儒教、仏教などをごちや混ぜにした日本人独特の死後の世界観のようなものが古くから形成されていました。
江戸時代の仏教は、これを応用してさまざまな法要を作り出しました。
日本人の死後の世界観とは、次のようなものです。
まず、人間が死んだ直後の霊魂は荒れているとして、これを、
-荒御魂-
と呼びました。
この荒御魂のうち、いちばん荒れている状態を、
-精霊-
といいます。
精霊が少し落ち着いた段階が荒御魂というわけです。
遺族が荒御魂を丁重に祀り、鎮魂の儀礼をしていけば、最後には、
-和御魂-
になるとされます。
日本人は、この精霊と荒御魂の段階をまとめて、
-ホトケ-
と呼びました。
そして、和御魂になった霊魂を、
-カミ-
と言ったのです。
よく、「ホトケなんて言うが、死んだばかりですぐほとけになんかなるもんか」などと言って怒るお坊さんがいますが、それはとんでもない誤解です。
ホトケというのは、死んで荒れている状態の霊魂なのです。
中でもいちばん荒れているのが四十九日、あるいは百ヵ日くらいまでの霊魂で、精霊の段階にあると見るわけです。
もう少し極端な場合、一年くらいの間は荒れている、つまり精霊の状態だとして、これを追善供養します。
荒れた魂を鎮めることによって、和御魂にしていくわけです。

中陰と年忌法要

その儀礼として行われるものが、
-中陰-
の法要です。
これはインドの霊魂観からきています。
インド人は、死んだばかりの霊魂はすぐには再生せず、四十九日の間宙ぶらりんの状態にあると考えていました。
この四十九日の間を中陰といいます。
この期間が過ぎると、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天界という「六道」のうちのいずれかの世界に生まれ変わるとして、このような考え方を「輪廻転生」と呼
んでいます。
この中陰の間、初七日、二七日、三七日……と順番にお経を読んでいって、四十九日まで魂鎮めを行うわけです。
そして百ヵ日、次が一周忌、三回忌と、中陰の法要は年忌法要に結びついていきます。
どうして一周忌の翌年が三回忌なのかというと、死んだ年があの世の一歳ですから、一年を経た時点で二歳になります。
この時一周忌を行うのですが、もう一年たったら三歳になりますから、今度は三回忌になるわけです。
だから、満年齢で計算するとわからなくなります。
一から出発すれば、当然三回忌になるのです。
そして次は、七回忌、十三回忌と続きます。
年忌法要は、儒教の考え方に起因します。
儒教では、「喪に服する」という習わしがあります。
父親や母親などが死んだ場合、喪に服するのは喪主の当然の務めとされ、だいたい三年は喪に服するようにいわれています。
三年とはあしかけ三年ですから、二十五ヵ月ということです。
これはちょうど三回忌に一致します。
この間は喪に服せよというのが、儒教的な考え方です。
本来は、四十九日あるいは百ヵ日までが「忌」、つまり死槻のゆえに他人との接触が禁じられている期間で、あとは「喪」に服するということになっていたのだと考えられます。
それは三回忌くらいまでだったのですが、平安時代になると、もう少し長い期間喪に服そうということになります。
天変地異は荒御魂のたたりだと考えましたから、もっと長く魂鎮めをやろうということになり、風習として七回忌や十三回忌を行うようになります。
だいたい、平安時代までは十三回忌くらいで終わりだったと考えていいと思います。
ところが、神道ではまた考え方が違っています。神道では、死んだ霊魂が神になるのに三十三年はかかるとしています。
三十三回忌というのは、ここから出てくるのです。
三十三年ないしは五十年くらい死者を祀っていれば、荒御魂は和御魂になるというのが神道の考え方です。
わたしはこれがわからなくて、戦犯として処刑された東条英機が三十三回忌を期して靖国神社にご奉祀された時、「三十三回忌は仏教のものだ。神道はいつの間に仏教に改宗したんだ」と皮肉を書いたことがあるのですが、あとで調べてみたらそうではありませんでした。
三十三年たったら神になると考えていたのは、実は神道のほうだったのです。
それまでの死者の魂は荒御魂、つまり不安定な霊魂だと考えていたわけです。
江戸時代になると、お葬式を義務づけられたお坊さんたちは、そういったさまざまな考え方を一切合財ひっくるめて、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、(二十五回忌)二十七回忌、三十三回忌(三十七回忌)、五十回忌、(七十五回忌)、百回忌まで勤めなさいというふうに広げていったわけです。
そのようにして法事や追善供養の理論を作り上げ、財政の基盤としました。

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